2004年ころに「通信の秘密」を研究しだしたときに、(ITまわりで有名な)ある弁護士さんに、通信の秘密って、肥大化しているよね、といったのですが、全く理解されなかったですね。
このインタビュー(「集団的自衛権丸ごと違憲 長谷部・早大教授にインタビュー」という記事)を読んで感じたことですが、自分の立場と異なる人の考えを「偏った立場」といってしまうほうが、学問の自由とかの観点から、きちんとした理解があるのか、と思ってしまいます。
たとえば、労働法学会でも「リボン闘争」は、違法ではないという考え方が多数かと思いますが、最高裁は、違いますね。大成観光事件は、橋本武人先生が、かかわった事件の中でも、先生が、アメリカ法などをも参考にして、許容されない行為であると信念をもって、判決を作ったと聞いたのは、30年前ですね。新進気鋭の先生が、違憲と解されるべきという理由をあげていますが、学会のバイアスというのは、ないのか、という議論はでてくるような気がします。
西教授が、ケーディス大佐等にたいしてインタビューをして、日本国憲法(とくに9条)の成立の歴史を事実として保存するというきわめて貴重な仕事をされたというのは、きちんと評価されるべきではないかと思います。
この西先生の研究成果については、「西先生の書斎」の中の論考(憲法9条の成立経緯)で読むことができます。
あと、国会での意見陳述もここで見ることができます。
法律は理念でできているのではなくて、事実が積み重なっているし、その多くは歴史的な事実であって、時間とともに風化するものです。(西先生の発言では、「ファクツ・アー・モア・パワフル・ザン・ワーズ、事実は言葉よりも強力である、力が強い。」と英国の法諺が引かれています)どれだけマニアックといわれても、理解されなくても、法の世界にいるものは、地道にしなくてはならないものと考えます。
自分の立場と異なるからといって、事実をも見つめようとしなくなるとするとか、偏っているとかいうのは、強く異議を唱えるべきだと思っています。
長谷部由起子先生には、「法廷衣装こぼれ話」は、ほめてもらったんですけどね。
(リンク修正 2017年6月4日)