EU IT政策の転向か-「経済が重要なんだ バカもの」路線?

「経済が重要なんだ バカもの(It’s the economy, stupid)」というのは、アメリカ合衆国の政治においてビル・クリントンがジョージ・H・W・ブッシュに対して勝利を収めた1992年アメリカ合衆国大統領選挙の最中、広く使われた言い回しだそうです。

どんなに「意識高い」系をいったとしても、結局、経済が回らなかったら、どうしようもないわけで、欧州のGDPRやAI法とかは、結局、なんらイノベーションを生んでいないというか、邪魔してきたのではないか、という感じかと思います。「デジタルの冬」とも揶揄されていた欧州のデジタル政策が風向きを変えるかもしれない、ということになります。

ちなみに「デジタルの冬」については、こんな論考(「永続的な未来を確かにするこめに欧州は、30年にわたるデジタルの冬をなぜ終わらせないといけないか(Why Europe Must End Its 30-Year Digital Winter to Ensure Its Long-Run Future)」)があります。

この論考では、2018年4月に、欧州委員会は、AIを提供し、欧州の競争力を強化する手法を提案したものの、結局、それらは、見るべき成果をあげていないとしています。しかしながら、このような動向が、変わりつつあるのではないか、という印象もあります。それを意識付けたので、2025年1月29日の欧州委員会のフォンデライアン委員長の競争力コンパスについてのスピーチです。その記事は、「欧州産業界、フォン・デア・ライエン委員長の一般教書演説の競争力重視の姿勢評価も、具体策の実施要請」(JETRO)とかに上がっています。

でもって、いろいろとこのスピーチに至る流れをフォローしてみます。

1  ドラギ報告書(「欧州競争力の将来」)

「欧州競争力の将来(The future of European competitiveness)」というのは、マリオ・ドラギ(前欧州中央銀行総裁、欧州屈指の経済学者)氏が欧州委員会から使命を受けて、欧州の競争力のある将来像についての個人的なビジョンをまとめた報告書です。プレスリリースは、こちらです。

この報告書では、単一市場における業界および企業が直面する課題について考察しています。また、これまで成長を支えてきた多くの要因に、もはやヨーロッパは頼ることができなくなるであろうことを概説し、明確な診断と、ヨーロッパを新たな軌道に乗せるための具体的な提言を行っています。

1.1 序文

技術の変化は急速に加速しています。ヨーロッパは、インターネットが主導したデジタル⾰命とそれがもたらした⽣産性の向上をほとんど逃してきました。実際、EUと⽶国の⽣産性格差は、主にテクノロジー部⾨によって説明されます。EUは、将来の成⻑を牽引する新興テクノロジーに弱いです。世界のトップ50テクノロジー企業のうち、ヨーロッパの企業はわずか4社です。

という認識のもと

課題に対処する唯⼀の⽅法は、平等と社会的包摂という価値観を維持しながら、成⻑し、⽣産性を⾼めることです。そして、⽣産性を⾼める唯⼀の⽅法は、欧州が根本的に変わることです。

としています。

でもって、成長に再点火するには、

  • 米国や中国との間のイノベーションのギャップを埋めること
  • 脱炭素化と競争⼒のための共同計画
  • セキュリティを強化し、依存関係を減らすこと

があげられています。

1.2イノベーションのギャップを埋める

⼀部のデジタル分野はすでに「失われている」可能性があるが、ヨーロッパには将来のデジタル⾰新の波を活かすチャンスがまだある(略)

AI、特に⽣成 AI は進化するテクノロジーであり、EU 企業は特定のセグメントで主導的な地位を築くチャンスをまだ持ってい
ます。ヨーロッパは、⾃律型ロボット⼯学で強⼒な地位を占めており、世界の活動の約 22% を占めています。また、AI サービスでは約 17% を占めています。しかし、⾰新的なデジタル企業は⼀般的にヨーロッパで規模を拡⼤して資⾦を調達できず、EU と⽶国の間の後期段階の資⾦調達に⼤きな格差が⽣じています[図 3 を参照]。実際、過去 50 年間にゼロから設⽴された EU 企業のうち、時価総額が 1,000 億ユーロを超える企業は 1 社もありませんが、⽶国では、時価総額が 1 兆ユーロを超える 6 社すべてがこの期間に設⽴されました。

この報告書では、AIの使用事例については、報告書Bにおいて特別に論じられています。

2 委員長のミッションレター

これは、Henna Virkkunen氏(こちら)に対して、「技術主権、セキュリティおよび民主主義」の執行副委員長としての役割を果たしてもらいたいということを依頼するレターになります。

あなた方の任務は、競争力があり、強靭で、包摂的なデジタルの未来を形成するために、欧州の取り組みをリードすることです。

としして、具体的に、

  • 欧州の2030年「デジタルの10年」目標達成に向けた道筋を監督
  • 人工知能のイノベーションを促進し、より安全で信頼できるものにするための作業を指揮/AIファクトリー構想/応用AI戦略の策定/欧州AI研究会議の設立を支援
  • 特にスーパーコンピューティング、半導体、モノのインターネット、ゲノム、量子コンピューティング、宇宙技術など、フロンティア技術の次の波に関する努力と投資の強化
  •  ドラギ・レポートにあるEUクラウド・AI開発法の提案を発展/革新的な中小企業に「計算資本」を提供するためのEU全体の枠組の構築
  • イノベーションの可能性、戦略的産業分野、主流のチップおよび装置製造をさらに支援するため、チップ法をフォローアップする。
  • ドラギ・レポートの提案に従い長期的なEU量子チップ計画を策定すること
  •  コネクテッド・コラボレーティブ・コンピューティングのための広範な戦略の一環として、安全で高速かつ信頼性の高い接続へのアクセスを改善するための欧州委員会の取り組みを進めること
  • 特に欧州のサイバーセキュリティ認証制度の採用プロセスの改善
  • 生産性を高め、安全保障と民主主義を守るため、欧州デジタルルールブックのタイムリーで予測可能な実施を確保
  • 欧州委員会は、デジタルサービス法およびデジタル市場法に基づき、必要な場合にはいつでも迅速かつ効果的な執行措置を取ることができるようにすること。
  • 特にEUウォレットを最大限に活用し、デジタル公共インフラの展開を担当し、企業がテクノロジーを十分に活用できるようにすること
  • 既存のデータ規則を活用した欧州データ連合戦略を提示
  •  電子商取引プラットフォームに関する課題に取り組む作業を主導
  • ダークパターン、ソーシャルメディアのインフルエンサーによるマーケティング、デジタル製品の中毒的なデザイン、オンラインプロファイリングなど、特に消費者の脆弱性が商業目的に悪用されるような、オンライン上の非倫理的な手法との闘いを支援
  • ソーシャルメディアの影響に関するEU全体の調査や、ネットいじめに対する行動計画に貢献
  • メディアの商業的発展を支援する一方で、民主主義や文化におけるメディアのユニークな位置を認識するような、メディアへのアプローチを保証すること
  •  EUのデジタル規範と基準を国際的に推進し、特にAIとサイバーセキュリティをはじめとするグローバルなデジタル・ガバナンスにおいてEUが主導的な役割を果たすよう努めること。
  •  特に、セキュリティー文化の強化、人材と機密情報の保護、危機発生時の委員会の行動力の確保などを通じて、委員会がサイバーセキュリティーの脅威により強くなるようにすること。
  • 欧州委員会のデジタル化を加速させ、特に、どのようにプロセスを自動化できるか、また、どのようにAIを活用すれば、安全かつセキュアな方法で、業務の遂行を改善し、政策立案に情報を提供できるかを検討すること
  • 国際パートナーシップ担当委員と協力して、信頼できるデジタル通信ネットワークなど、パートナー国におけるグローバル・ゲートウェイのプロジェクトを支援すること

でもって、

3 競争力コンパス

2025年1月29日「EU競争力コンパスに関するフォン・デル・ライエン委員長の声明」については、こちらです。委員会のコミュニケは、こちら。 

この競争力コンパスは、

  • 1 つ目は、ヨーロッパがより高いギアにシフトするために必要な政策変更を特定すること
  • 2 つ目の目標は、意思決定の速度と品質を向上させ、フレームワークとルールを簡素化し、断片化を克服するために協力
    する新しい方法を開発すること

を目的としています。

上のドラギ報告書の3つの変革の必要事項を水平的促進要因に関する行動で補完しようとしています。イラストは、こんな感じです。

3.1 競争力強化のための3つの変革の必須事項

3.1.1  イノベーションのギャップを埋める

これは、さらに、

  • 明日の経済のための技術面での卓越さ
  • 新しい成長エンジンに投資すること
  • イノベーションをすべての経済に広げること

などに分けて論じられています。政策や法的な柱がまとめられていて、

  • スタートアップおよびスケールアップ戦略 [2025年第2四半期]
  •  第28政権 [2025年第4四半期~2026年第1四半期]
  •  欧州イノベーション法 [2025年第4四半期~2026年第1四半期]
  •  欧州研究領域法 [2026年]
  • AIファクトリーイニシアティブ [2025年第1四半期]、AIの適用、科学におけるAI、データ連合戦略
    [2025年第3四半期]
  • EUクラウドおよびAI開発法 [2025年第4四半期~2026年第1四半期]
  • EU量子戦略 [2025年第2四半期]、量子法 [2025年第4四半期]
  • 欧州バイオテクノロジー法およびバイオエコノミー戦略 [2025-2026年]
  • ライフサイエンス戦略 [2025年第2四半期]
  • 先進材料法 [2026年]
  • 宇宙法 [2025年第2四半期]
  • 水平合併管理ガイドラインの見直し
  • デジタルネットワーク法 [2025年第4四半期]

があります。

3.1.2 非炭素化と競争力の合同ロードマップ

これは、さらに

  • 手頃な価格のエネルギー
  • クリーン生産のビジネスケース
  • 循環経済の可能性を引き出す

にわけて論じられています。政策や法的な柱としては

  • クリーン・インダストリアル・ディールおよび手頃な価格のエネルギーに関する行動計画 [2025年第1四半期]
  • 産業脱炭素化促進法 [2025年第4四半期]
  • 電化行動計画および欧州グリッドパッケージ [2026年第1四半期]
  • 新たな国家補助の枠組み [2025年第2四半期] 鉄鋼および金属行動計画 [2025年]
  • 化学産業パッケージ [2025年第4四半期]
  • 欧州自動車産業の将来に関する戦略対話および産業行動計画 [2025年第1四半期]
  • 持続可能な交通投資計画 [2025年第3四半期]
  • 欧州港湾戦略および産業海事戦略 [2025年]
  • 高速鉄道計画 [2025年]
  • 炭素国境調整メカニズムの見直し [2025年]
  • 循環経済法 [2026年第4四半期]
  • 農業および食品に関するビジョン [2025年第1四半期]
  • 大西洋協定 [2025年第2四半期] 気候法の改正 [2025年]

があげられています。

3.1.3 過剰な依存を減らし安全保障(セキュリティ)を増す

これは、さらに

  • 通商と経済安全保障
  • 不公正な競争とプレイイングフィールドを水平化する
  • 防衛産業、安全保障および準備

にわけて論じられています。法と政策については

  • 野心的な貿易協定を締結し、クリーン貿易および投資パートナーシップを実施する
  • 地中海横断エネルギーおよびクリーンテクノロジー協力イニシアチブ [2025年第4四半期]
  • 重要な原材料の共同購入プラットフォーム [2025年第2-3四半期] 公共調達に関する指令の改正 [2026年]
  • 欧州防衛の将来に関するホワイトペーパー [2025年第1四半期]
  • 準備連合戦略 [2025年第1四半期]
  • 内部安全保障戦略 [2025年第1四半期]
  • 重要医薬品法 [2025年第1四半期]
  • 欧州気候適応計画 [2026年]
  • 水のレジリエンス戦略 [2025年第2四半期]

があげられています。

3.2 水平的競争力可能化策(Horizontal enablers of competitiveness)

具体的には、

  1. 規制環境の簡素化、負担の軽減、迅速性と柔軟性の促進
  2.  障壁の撤廃による単一市場のスケールメリットの最大限の活用
  3.  貯蓄・投資同盟と再編成されたEU予算を通じた資金調達
  4.  社会的公正を確保しながら技能と質の高い雇用の促進
  5.  EUおよび各国レベルでの政策のより良い調整

になります。

これについての行動のフラッグシップは

  • 包括的な簡素化と中小型株の定義 [2025年2月26日]
  • 欧州ビジネスウォレット [2025年]
  • 単一市場戦略 [2025年第2四半期]
  • 標準化規則の改正 [2026年]
  • 貯蓄および投資連合 [2025年第1四半期]
  • 次期MFF(競争力基金および競争力調整ツールを含む) [2025年]
  • スキル連合 [2025年第1四半期]
  • 質の高い仕事のロードマップ [2025年第4四半期]
  • スキルポータビリティイニシアチブ [2026年]

となっています。

これらを図示すると以下のような感じです。

規制することによって、安心に利用できるという名目のもとで、規制強化していたEUが、対にその態度を悔い改めるのか、ブリュッセル効果というのは、産業の冷却剤だったのか、とかも含めて興味深い動向に思います。

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