一般財団法人情報法制研究所(JILIS)の【第4回情報法制シンポジウム】テーマ4「プライバシー・COVID-19・デジタルプラットフォーム」におげく山本龍彦先生の「情報自己決定権の現代的な課題」で、当社のブログの 「EU、揺らぐプライバシー信仰」と「邪教としてのデータ保護教」(現在は、共に、キンドル本「新型コロナウイルス対プライバシー」にて収録)をとりあげていただきました。(1時間11分過ぎから)
興味深い講演の流れのなかで、とりあげていただけたことは光栄です。
データ保護教とデータ活用教とが宗教戦争になっているという認識とのことですが、個人的には、そのようには思っていなかったりします。
プライバシーの合理的な期待があり、それをバランスよく保護していくということが重要であるということは、たぶん、幅広い合意ができていると考えています。
そこで、現代社会において、「データを保護する」という法的構成を取っているということも理解しています。
問題はそこからで、
(1)守られるべき利益が何かが定義されていないで、法的構成のみを追い求めているのを「データ保護教」と定義しています。
(2)そして、「データ保護教」は、接触追跡アプリにおける他の憲法上との価値との衝突において、他のより侵襲的でない手段がある場合には、過度な制限であるとして、そのような手法を認めないとしています。
(3) (2)は、他の憲法上の価値との関係で、「データ保護の最も優越的な地位」を認めてる立場と理解しています。
(4) このような立場は、プライバシーのバランスのとれた保護という立場のもとで、「データ保護」というアイコンを信奉するものであって、もはや邪教に値する
というのが私の立場です。
私の立場では、「データの活用を求める」というのは、コンタクトトレーシングにより感染症拡大防止の価値に合理的な関連性を求める手法として、データを取得・利用することを求めるのであって、それが、宗教たるレベルになっているとは、あまり思えないところです。
(それを宗教というのであれば、信者たることを誇りこそすれでありますが。)
わが国のCOCOAが、プライバシー保護という観点から、万が一の場合にも何の役にもたたないねとして26頁スライドの「不穏なシナリオ」に向かっているように見えるというのが私の意見です。
疲れるのでやめましょうというのは、そのとおりだと思います。ただ、その方法論ですね。
その制約の合理性・必要性を冷静に衡量していきましょう
ということですが、では、その手法としてどのようにするのか、それを「データ保護教」は提案できているのでしょうか、というのが私の問題意識です。
私の立場からは、プライバシーの利益を人間の平穏に過ごす精神的な利益と定義することによって、それを測定することができること、また、きわめてコンテキストによってそれが左右されることを論証しようとしています。
データ保護教は、この衡量をブラックボックスのなかで、密教として、行っているのではないか、利益の明確化がなされいないまま論を進めていれば、事実の確認・エビデンスの取得さえもできないではないか、というのが、根本的な疑問です。
スライド28頁ですが、個人的には、「データ保護を語るのがファッション」になっているというのが、私の認識なので、そこが根本的に違いますね。プライバシーパラドックスのもとで、「語る」ときのプライバシーの価値と実際の感覚上の価値とは、多いに異なるので、それをもとに、どのような手法で「冷静に衡量」するのがいいかという手法に議論のメインが移るといいなあと思っています。
「止めを刺すツール」というのは、議論を呼べたので良かったですね。エビデンスに基づいた政策決定というのは、流行というよりも科学的な態度で、これがファッションだとすれば、むしろ、スタイルというべきものですね。
ファッションは、
今日、流行ったものは明日には消える(by Project Runway)
のですが、スタイルは、普遍のものです。
指導理念は何かを真剣に検討する時期に来ている
というのは、本当にそう思います。でもって、データ保護の指導理念って何になったんですか? データの保護を求める権利っていって(曽我部先生の1時間29分あたり)も、結局、それは、法的構成としてデータを保護するのものとしていますということで何も進歩していないような気がしています。意見が一致するところと異なるところが明らかにできたのであれば、幸いです。