このウォーレン・ブランダイスの「プライヴァシーの権利」を参考にするとき、私たちは、きわめて示唆に富む表現を見つけることができる。
それは、「コモン・ローは、各個人に対して、通常、自己の思想や感情をどの範囲で他人に表示すべきかを決定する権利を保障している。われわれの統治制度のもとでは、彼は自己の思想や感情の表明を強制されることは絶対にない(ただし、証人台に立った場合は別である)。そしてまた、たとえもし彼が、思想や感情を表明しようとする場合でも、彼は、一般に、それらに対してどの限度のパブリシティを与えるべきかを決定する権利を留保している。この権利の存在は、表明に用いられた特定の方法の間によって左右されるものではない。それが言葉によって表明されたか、あるいは記号によったか、絵画によったか、彫刻に、音楽に、いずれであるにしても、それは問題ではない。 この権利の存在はまた、思想や感情の性質や価値に左右されるものでもなければ、その表明の方法がすぐれているかどうかによって左右されるものでもない。たまたま書いた手紙や、日記の書き込みにも、またもっとも価値のある詩やエッセイにも、できそこないや下手くそな絵にもそして、傑作にも、同一の保護が与えられる」 というものである。
ここでは、各個人の思想・感情の保護が、核心であることが語られている。そして、その保護が、この意思伝達の権利を容貌や言葉、行為、交際関係に拡大しているところに、プライバシを護るための権利があるとしており、そのような法理の発展が必用であることを説いている。
情報処理の費用の著しい低下は、プライバシの問題を新しい時限で捉えなければならないかのように思わせる。
しかしながら、現代においても、ウォーレンとブランダイスの認識は、議論の出発点として重要な意義を有しているもと考えられる。現実に、「文明の進展につれて、知的および感情的な生活が緊張し、感覚・知覚がたかまってきたが、こういったことによって、物理的な事物に存するのは、人生の苦楽や利益のほんの一部分にしかすぎないことがあきらかになった」というのは、ブランダイスとウォーレンの言葉であるが 、そうといわれなければ、21世紀の情報社会が直面している問題を指し示した言葉とも考えられるのである。
そもそも、プライバシとはなにか、そして、それが法的な制度として保護されているのは何故なのか、プライバシの保護のための仕組みがどのようにあるべきかという点について考えるときには、種々の見解から考えることが可能になる。そこで、その前に、プライバシ・データ保護の制度を大局的に把握しておくことにするのが効果的である。